読みすすめかた

外国語なんて英語くらいしかやったことがない方、 あるいは、第二外国語を選択するときに、 僕のように中国語など屈折しない言語に逃げた方へ。

パーリ語は屈折語です。屈折語とは、ウィキペ先生に訊けば何でも教えてくれますが、 つまりは語尾変化のある言語です。語尾変化とは何かというと、 例えば英語では they, their, them, theirs などと代名詞が変化しますが、 このような変化が代名詞に限らず全ての名詞に起きるということです。 英語では動詞の変化は (不規則動詞を除けば) -ed を付けるか -ing を付けるか -s を付けるかの三種類しかありませんが、屈折語はもっとたくさんの変化をします。

僕は同じく屈折語であるラテン語を、コソコソやっていて、 それをイギリス人に見つかって、言われたことがあります。

「ラテン語の勉強って大変だろう? なぜって、実際にテキストに当たれるようになるまでに、 すごいたくさんの変化形を覚えないといけないから」

実際、本サイトで公開しているパーリ語の教科書を見てみればわかりますが、 「構文」の章に行くまでに、まず名詞や動詞の変化がすべて網羅されます。 これをすべて覚えるとしたら、確かに大変です。

学校で習うときはそうかもしれません。 ですが僕と、これを読んでいる方は、学校でやるわけではありません。 カンニングし放題なわけです。 つまり変化表を暗記する必要は一切ありません

A4 のコピー用紙を用意して、-a で終わる男性名詞の変化表と、 動詞の現在形能動態の語尾を書き写してください。 あとはそれを見ながらやればいいのです。 他の事柄は、流し読みしてください。そして構文の章へ飛んでください。

構文の章も、根を詰めて読む必要はありません。 なんとなく、どこにどんなことが書かれているか把握するくらいでいいです。

そうしたらテキストを用意して、読み進めてみましょう。 辞書は (英語ですが) インターネットで検索できます。 テキストもダウンロードできます。 ちなみに僕は、辞書を全部ローカルにダウンロードして、一つの HTML にしています。 いちいちネットに出て行かなくて済むのでとても楽です。

最初のテキストは、詩ではなく、後世のもの (難しい複合語が増える) でもないものがいいでしょう。つまりは、阿含相応部とかその辺です。 ちなみにダンマパダは最初の最初の第一単語で躓く可能性大なので、 少し別の文章で慣れて自信をつけてから挑んだ方がいいです(実体験)。

そうして読み進めつつ、詰まってしまったときに教科書の該当箇所をよく読んでください。 そうやっているうちに、覚えようとしなくても覚えます。 (最初に動詞や名詞の変化表を見てしまうと、その変化の多様さに圧倒されてしまいますが、 実際のところ、覚えたくなくても覚えてしまうのが語形変化です。 大したことはありません。そんなものよりも、単語を覚える方がずっと大変です)

もちろん、一から教科書を覚えたほうが早く習得できますが、 そういうことを一人でやると、途中で興味が尽きて絶対に挫折します。 何か読みたい文章をまず定めて、それを読むために必要なところだけを つまんでいくのが長続きします。

どう発音するか

アクセント

語学をやるときは声を張り上げて文章を読むべきです。 しかし教科書には、なぜかアクセントをどうするかが載っていません。 検索してもこれと言った解説がなかなか見当たりません。

そこで、Language in South Asia (Braj B. Kachru, Yamuna Kachru, S. N. Sridhar; Cambridge University Press; 2008) をグーグルブックスで立ち読みすると、 3. Hindi-Urdu-Hindustani の Phonology の章にこう書かれています:

(p.84) ヒンディー・ウルドゥー語において、強勢の落ちる音節が paenultima (末尾から二つめの音節) 辺りに来るのは、これより初期の時代、 つまり Middle Indo-Aryan 時代から受け継いだものだ。(中略) 後期 Old Indo-Aryan において、高低アクセントは強弱アクセントに移り変わったらしい。 Middle Indo-Aryan における強弱アクセントについては、意見の対立がある。 単語の強勢の位置は、paenultima が長ければそこ、短ければその直前であった、 と一般的に信じられている。単語を構成する音節が全て短いときは、 強勢の位置は最初の音節だった。(強調は引用者が行った)

「長い」音節とは、長い母音を含む音節です。もしくは、短い母音を含む音節であっても、 その母音の後ろに二個以上の子音が連続するならば、長い音節です。 「短い」音節とは、短い母音を含む音節であって、かつ、その母音の後ろに続く子音が一つ以下のものです。

パーリ語は Middle Indo-Aryan の初期に分類される言語です。 ですので、上に引用したように、強弱アクセント (英語と同じ) を付けて読むのが正しいようです。 ただし、その強勢の位置については、これが正しいのかと言うとどうかわかりません。

例えば、"On the Stress-Accent in the Modern Indo-Aryan Vernaculars", G. A. Grierson, The Journal of the Royal Asiatic Society of Great Britain and Ireland (Jan., 1895), pp. 139-147 (archive.org にスキャンデータあり) によれば (この著者も他のところから引用しているのですが、その元の論文はドイツ語っぽくて読めない):

  1. 後ろから数えて二番目の音節が長ければ、そこに強勢。
  2. もしそうでないときは、後ろから数えて三番目の音節が長ければ、そこに強勢。
  3. もしそうでないときは、後ろから数えて四番目の音節に強勢。

となっています (ただしこれは古典サンスクリットの読み方です)。さっきと少し違います。 ですが実際には、四音節を越える短い音節ばかりの単語って、 あんまりないなあ、と思えば、結局のところほとんど同じような結果となります。 例えば viharati (彼は居た) の強勢位置は、 前者の規則でも後者の規則でも ví-harati ですね。

また、複合語については、後者の論文にこう書いてあります:

なので、jetavane (ジェータ林) は、jèta-váne と読むのがよいようです。

最後に。上座部の人たちが実際にどのようなアクセントで読むかと言えば、 どうやら国によるそうです。ある場合は古典サンスクリットのように (つまりここまで解説したように)、 ある場合は、土着の言語と同じ規則で、と言う風に。

また、Omniglot の記事で 実際の発音が聞けます。これを信用するなら、あまり抑揚をつけて読まないほうがいいかもしれません。

a の音

ここから下は、まず一度教科書の発音解説を一通り読んだ人に向けて書きます。

さて、a の音です。イ・イー と ウ・ウー は単に長さを変えるだけですが、 a と ā は長さだけでなく音の質が違います。 短音の a は中舌化するようです。 これはどうやら古典サンスクリットの時代にはすでにそうだったようです。 ですので、短音の a は、英語の曖昧母音を、それより心もち口を開いた感じに 発音するといいと思います。長い ā は日本語の「アー」です。

c の音

c の音は、IPA 記号で言うところの [c] (硬口蓋破裂音) ではなく、 普通に日本語の「チャ」が正しいようです。多分

r の音

Wikipedia 英語版には、r の発音が英語のような接近音だと書いてあります。 これをマジで信じるなら、舌が上あごに付かないようにして「ラ」と言わなくてはいけません。 僕はどうしてもそれが信じられなかったので、グーグル先生に問い詰めたところ "Historical Phonology of Old Indo-Aryan Consonants", Masato Kobayashi (2004) というのを教えてもらいました。

これは Old Indo-Aryan (主にヴェーダ語) についての話ですが、 パーリ語にも当てはまると思いましょう。そうするとそこには、 「-ll- という重子音はあるのに -rr- という重子音が欠けているのは、 r がはじき音だったから」と書かれています。 はじき音というのは、標準的な日本語のラ行のことです。

v の音

ラテン語を学んだ人は、v の音が「ヴァ」と「ワ」のどちらかだ、というふうに言われたら、 全部「ワ」で読みたくなってしまいます。ですが、どうもサンスクリットの時代から 「ヴァ」への変化は起こっていたようですので、「ヴァ」と読む場所は「ヴァ」と読みましょう。

h の音

インド人の h は有声です。つまり「ハ」を濁らせて発音しないといけません。 念のために言っておきますが h の濁音は b ではないですよ? 息を出しながら「ア゛」みたいな音でしょうか……。

ñh, ṇh, mh, vh などの音

akha や adha は、アクハ、アドハみたいな三拍の音ではなく、 アカ・アダ (ただし息を吹いて発音する) という二拍の音です。

では ṇh の場合はどうでしょうか。 例えば taṇhā (渇望・「愛」) は「タナー」で三拍でしょうか。 それとも「タンハー」で四拍でしょうか。

これは詩を読むとわかります:

Sam.Sa.161

‘‘Acchejja taṇhaṃ gaṇasaṅghacārī,
  -   -  v| ?  -   v|v -   v|- -

Addhā carissanti bahū ca saddhā;
-   -  v|-  -  v| v -  v| -   -

- は長い音節、v は短い音節のマークです。 この二行を見比べて、? にはどちらが入るでしょうか。

長いほうですね。

ですから、taṇhaṃ は「タンハン」と四拍であることが確定します。

ですが本当に「タンハン」でいいのでしょうか。 発音しにくくないですか? (一つめの「ン」は舌を反り上げて、それを上あごにつけてきちんと発音するのですよ?)

そこで niruttidīpanī には、こう書かれています: (tipitaka.org Tipiṭaka Scripts Roman → Web → Tipiṭaka → Anya → Leḍī sayāḍo → Niruttidīpanī → 1. Sandhikaṇḍa)

Yadā hakāro vaggantehi vā ya, ra, la, vehi vā yutto hoti, tadā urajoti vadanti.
「鼻音, y, r, l, v に h が結合したときは、『胸音』という」

urajo 「胸音」(胸から出す音) というのは niruttidīpanī 独自の言い方ですので、 その意味するところは想像するしかありません。

また、Introduction to prakrit (archive.org) を読みますと、putta (息子) の処格が puttammi (パーリ語では puttamhi) となっています。

prakrit といってこの本で解説されているのは、パーリ語よりももう少し時代の下った言語です。 (実際、序文を読むと、「パーリ語は非常に学習環境が整っているが、時代が古すぎてプラークリットの勉強をするにはずれている」 と書かれています)

ですので、puttamhi の発音は、「胸音」であって、かつ時代が下ると puttammi になってしまいそうな音、 ということになります。

結局、僕は taṇhā「タンナー」(ただし「ナ」は息を吹きながら)、 puttamhi「プッタンミ」(ただし「ミ」は息を吹きながら) というような音だと思って読んでます。 この音を信じるかどうかはこれをお読みになっている人次第です。

全般的に

上述の Introduction to prakrit は読むと結構面白いです。たとえば udaka (水) は プラークリットでは「ウアア」となるそうで、 インドの子音はそんなに強く発音されていなかったそうです。


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