第十四章

構文 (kāraka)

587. パーリ語の構文は難しくありません。というのは、 この章で解説する名詞・形容詞・代名詞の関係の ほとんどは、「複合語」の章で解説したように、 複合語を作ることで回避されることが非常によくあるからです。 ですから、複合語の章をしっかり読んで習得した学習者は、 もうすでに多くのことを終えたことになります。 普通の散文ならば、そんなに大きな困難なく理解できるでしょう。 しかし、各々の格には特殊な使い方もありますから、 その知識がなければ、この言語を完璧に習得することはできません。 そういうわけですから、この章も念を入れて読んでください。

(i) 文の順番

588. パーリ語の語順は、とても単純な性質をしています。 重文はそんなに使われません。

(1) 単文、重文、複文、いずれであっても、 述語は必ず最後に来なければいけません。

(2) 目的語が含まれる単文では、文は (i) 主語、(ii) 目的語 (iii) 述語、の順番になります: dāso kammaṁ karoti. 奴隷は仕事をする。

(3) 主語や目的語を修飾する語は、その主語や目的語、各々の前に来ます。 また、副詞は動詞の前に来ます: ete tayo purisā mahantaṁ siriṁ sīghaṁ pāpuṇiṁsu. これら三人の男たちは、大きな成功に、すぐに至った。

注意: 時刻の副詞は、必ず文頭に来ます。

(4) pana (しかし)、udāhu (もしくは) は、重文を作るのに使われます。 ce, yadi, sace (もし) は、複文を作るのに使われます。

(ii) 冠詞

589. 英語の冠詞に相当するものは、パーリ語にはありません。 eko, ekacce (一つの、とある) が、しばしば不定冠詞の意味で使われます (253)。 また、so, eso (あれ、これ) が、定冠詞の役割をします: so puriso (英語 the man)、sā itthī (英語 the woman)。

注意: 英訳する場合、これらの語が前にない名詞は、文脈によって、 どちらかの冠詞をつけて訳します: puriso (英語 a man もしくは the man)

(iii) 一致

590. 主語と述語の一致

(1) 以下のものが述語になれます:

(i) 定形動詞: bhikkhu gahapatiṁ ovādi. 僧侶は家主に助言した。

(ii) 名詞 (暗黙の動詞 hoti がその後ろに来ます): yadi ete guṇā もしこれらが美徳 (である = honti) ならば。

(iii) 形容詞 (この場合も、暗黙の動詞 hoti がその後ろに来ます): tvaṁ atibālo. 君は大馬鹿 (である = asi)。

(iv) 受動完了分詞が定形動詞として使われる場合: so pi gato. 彼も行った。(直訳: 彼もまた行かれた)

(2) 定形動詞が述語として使われる場合、 その動詞と主語は、数と人称が一致しなくてはいけません。 人称の違ういくつかの主語がある場合、 もしそこに一人称が含まれていれば、動詞は一人称複数形にします: so ca tvaṁ ahaṁ gacchāma. (彼と君と僕が行く)。 もし主語に一人称が含まれず、二人称と三人称があるならば、 動詞は二人称複数形にします: so ca tvaṁ gacchatha (彼と君が行く)。

(3) 形容詞か受動完了分詞が述語になる場合、 その形容詞・受動完了分詞と主語は、 性と数が一致しなくてはいけません: so gato (彼は行った), sā gatā (彼女は行った), taṁ gataṁ (それは行った); so taruṇo (彼は若い), sā taruṇā (彼女は若い), taṁ taruṇaṁ (それは若い)。

(4) しかし、名詞が述語になる場合は、 そのような性・数の一致は行わなくてかまいません: appamādo nibbānapadaṁ (=nibbānassa padaṁ) 用心は涅槃への道だ。

形容詞と名詞の一致

591. 形容詞や分詞 (分詞は形容詞の性質を持ちます) は、 自分に修飾される名詞と複合語にならないときは、 その名詞と性・数・格が一致しなくてはいけません。

関係代名詞と先行詞の一致

592. 関係代名詞は、先行詞と、性・数・人称が一致しなくてはいけません。

(1) 関係代名詞は、名詞を伴わず、それだけで使われることがあります: yo jānāti so imaṁ gaṇhātu. (知っている者にこれを取らせよ) この例では、指示代名詞 so が相関詞 (関係詞節を受ける代名詞) として使われていることに 注意してください。

(2) 関係代名詞は、先行する名詞の代わりとして用いられることがあります: ahaṁ ekaṁ upāyaṁ jānāmi, yena amhe gaṇhituṁ no sakkhissati. 私はある方法を知っている。それ (=方法) によって、 (彼は) 私たちを捕えることができなくなるだろう。

(3) 明示的な名詞とともに: yassa purisassa buddhi hoti so mahaddhano ti vuccati. その者に知恵があるとき、その者は、富めると呼ばれる (知恵のある者は、富めると呼ばれる)。

(4) 関係代名詞節が前に来ることに注意してください。 ただし、強調のために、相関節が前に来ることも時々あります: na so pitā yena putto na sikkhāpiyati. その人によって息子が勉強させられないような、 彼はそんな父ではない (彼は息子を勉強させない父ではない)。

(iv) 名詞の構文

593. これは、正しくは支配関係のことです。というのは、 kāraka という用語は、名詞と動詞の間の関係を意味するからです。 ですから、動詞と関係のない単語同士に存在する関係は、 kāraka とは呼びません。ですので、属格と呼格は、格だと考えません。 この二つは動詞と何も関係しないからです。 よって、属格・呼格は akāraka (非-格) と呼ばれます。

1. 主格

594. 主格の使い方は、英語ととてもよく似ています。 主格は動詞の主語になり、その動詞は、主格の名詞と数・人称が 一致しなくてはいけません。「主語と述語の一致」(590) を見てください。

(i) 主格は、同格に用いることができます: malliko kosalarājā マッリカというコーサラ王は。

(ii) 主格は、書物の題名で絶対的に (訳註: 動詞と相対せずに) 使われます。 つまり、書物の題名は、主格本来の語尾になりません: mahājānakajātaka マハージャーナカ生誕物語。

2. 属格

595. 属格の本来の意味は、所有を表す「~の」です。

(i) ですから、属格は主に所有を表すために使います: suvaṇṇassa rāsi (黄金の山)。 rukkhassa sākhā (木の枝)。

(ii) 上のような例では、属格は、修飾される名詞と複合語になることも多いです: suvaṇṇarāsi

(iii) 属格は、一部分を取りだす大元の、全体を意味することがあります。 これを部分の属格と言います: brāhmaṇānaṁ so paṇḍito. バラモンの中では、彼は賢い。 sabbayodhānaṁ atisūro 全兵士の中で最も勇敢な人。 tumhākaṁ pana eko na しかし、あなた方の中の一人も…ない。

(iv) 属格は、違うこと、等しいこと、等しくないこと、を表す語と 一緒に使います: tassa antaraṁ na passiṁsu. それとの違いを (彼らは) 知らなかった。 sadiso pitu 父と同じ。 tulyo pitu 父に匹敵する。

注意: これらの例では、奪格を使うこともできます: sadiso pitarā.

(v) 親しさや、その逆を意味する語は、属格とともに使われます: sā brāhmaṇassa manāpā. 彼女は、(その)バラモンのお気に入りだった。

(vi) 同様に、尊敬や畏敬を意味する語も、属格とともに使われます: gāmassa pūjito 村に崇められる、rañño mānito 王に崇められる

注意: これらの例では、具格を使うこともできます: gāmena pūjito

(vii) 技能、熟練などや、その逆を意味する語は、 属格を支配します: kusalā naccagītassa 踊りと歌のうまい。

(viii) 属格は、場所、時間、距離を表す語とともにも使われます: amhākaṁ buddhassa pubbe 私たちの仏陀が (現れる) 前に。 gāmassa avidūre 村から遠くないところに。 upari tesaṁ それらの上に。

(ix) ~を信じている、~に好感を持っている: buddhassa pasanno (彼は) 仏陀に敬虔だ。

注意: この場合は、処格も使えます: buddhe pasanno

(x) また、(哀しみながら) 思い出す・考える、憐れむ、 願う、分け与える、尊敬する、綺麗にする、満たす、恐れる、 その他いくつかの語とともに使われます: mātussa sarati. 彼は (哀しみながら) 母を思い出す。 na tesaṁ koci sarati. 誰も彼らを覚えていない。 telassa dayati. 彼は油を与える。 pūrati bālo pāpassa. 愚か者は悪に満ちている。 sabbe tasanti daṇḍassa 皆が罰を恐れる。

これらの例では、対格を使うこともできます: telaṁ dayati.

注意: 恐れる、を意味する語は、奪格を支配することもできます: kin nu kho ahaṁ sunakhā bhāyāmi どうしていったい、私は犬を恐れよう?

(xi) 属格と、それに一致する分詞の組み合わせは、 絶対属格と言います。これは一般的に、付帯状況を表します: tassa bhattaṁ bhuttassa udakaṁ āharanti. 彼が食事を食べ終えると、(彼らは) 水を取ってくる。

(xii) 属格が表す関係は他にもいくつかありますが、 英語にも全く同じ使い方がありますから、難しいことはありません。

596. 以上のことからわかるように、属格はしばしば 対格・奪格・具格・処格の代わりに用いられます。 副詞的に使われることもあります: kissa (なぜ?) また、属格が動詞に係っていくときは、必ず他の格の代わりに 使われているということに注意してください: mātussa sarati.

3. 与格

597. 何か与えられるものの受け手や、何かしてもらうことの受け手は、 与格にします。ですから、対格を直接目的語に持つ他動詞の、間接目的語 としても、与格は使われます。

(i) したがって、与格は「~に」「~のために」という意味になります: bhikkhussa cīvaraṁ deti. (彼は) 僧侶に服を与える。 yuddhāya paccuggacchāmi. 私は戦闘 (する) ために出発しよう。

(ii) 褒める、非難する、怒る、信じる、疑う、同意する、 妬む、喜ぶ、不快に思う、害する、益する、承認する、 許す、挨拶する、祝福する、憎む、乱用する、隠す、崇拝する、運ぶ、 の意味の動詞は、与格を支配します。

buddhassa silāghate. 彼は仏陀を褒める。 yadi'haṁ tassa kuppeyya 仮に私が彼に怒っているならば。 duhayati disānaṁ ogho. 洪水が (その) 地方を害した。 tuyhaṁ saddahāmi. 私はあなたを信じる。 svāgataṁ te. ようこそ。 sotthi tuyhaṁ hotu. お元気で (さようなら)。 khama me. 私を許してくれ。 mayhaṁ sapate. 彼は私を罵る。 tassa sampaṭicchi. 彼はそれに同意した。 ussuyanti dujjanā guṇavantānaṁ. 悪人たちは徳のある人たちを妬む。 tassa atītaṁ āhari. (彼は) その人に昔話をした。 devā pi tesaṁ pihayanti. 神々ですら彼らをうらやましがる。 samaṇassa rocate saccaṁ 真理は沙門を喜ばせる。

(iii) 与格は、「~がある」の動詞と一緒に使われて、 所有を表すことがよくあります: puttā me n'atthi. 子供は私にはない。(私は子供を持っていない (所有))

注意: 動詞 hoti が与格と一緒に用いられて、所有を表すときは、 この動詞は単数形になるのが一般的です。 上の例のように、所有されるもの (主語) が複数でも、です。

(iv) alaṁ (充分、ふさわしい) は、与格を支配します: alaṁ kukkuccāya 後悔するがいい。 alaṁ mallo mallassa 闘士には闘士がお似合いだ。

(v) attha (目的), hita (利益、幸福), sukha (幸せ) は、 それぞれ与格形で「…の目的のために」「…の利益のために」 「…の幸せのために」を意味します。これらは属格を支配します: ropanassa atthāya または ropanatthāya 種まきの目的で。 devamanussānaṁ hitāya 神々と人々の利益のために。 tassa sukhāya 彼の幸せのために。

(vi) 与格は、「…する目的で」を意味することもあります。 この場合、その与格は属格を支配します: dārassa bharaṇāya 妻の扶養のために、妻を養うために

注意: この例からわかるように、-āya の形の与格は、 不定詞の意味合いになります。

(vii) 与格は、動詞 maññati (考慮する、見なす) と一緒に 使われることがあります。その場合、軽蔑が暗示されます: kaliṅgarassa tuyhaṁ maññe. あなたは木片だと私は思う、お前はくずだ。 jīvitaṁ tiṇāya na maññe. 私は命を草ほどにも思わない、命はどうでもいい。

(viii) 動作が向けられる場所が、与格になることが時々あります: appo saggāya gacchati. ほんの少数が天国に行く、天国に行く人はほとんどいない。 nirayāya upakaḍḍhati 地獄に引きずり落とす。 so maṁ udakāya neti. 彼は私を水場に連れていく。

(ix) 与格は、しばしば対格や処格の代わりに使われます。

4. 対格

598. (i) 対格は、一般的に、他動詞に支配されます: rathaṁ karoti. (彼は) 馬車を作る。 āhāro balaṁ janeti. 食べ物は強さを生み出す。

(ii) 移動を意味する動詞は、全て対格を支配します: nagaraṁ gacchati. 彼は街に行く。 bhagavantaṁ upasaṅkamitvā 世尊に近づいて。

(iii) 選ぶ、名づける、~と呼ぶ、任命する、訊く、 作る、知る、考慮する、などの動詞は、二つの対格を採ります。 片方は直接目的語で、もう片方は補語です: puriso bhāraṁ gāmaṁ vahati. (その)男は荷物を村に運ぶ。 purisaṁ gacchantaṁ passati. 彼は男が行くのを見ている。 これらの例で、gāmaṁ, gacchantaṁ が補語です。

(iv) 使役動詞も同様に二つの対格を支配します: puriso purisaṁ gāmaṁ gamayati. 男は、男に村へ行かせる。 ācariyo sissaṁ dhammaṁ pāṭheti. 師は、弟子に法を読ませる。

注意: 使役動詞の場合、補語の代わりに具格を使うこともできます: sāmiko dāsena (または dāsaṁ) khajjaṁ khādāpeti. 主人は奴隷に食べ物を食べさせる。 purisena (または purisaṁ) kammaṁ kāreti. (彼は) 男に仕事をさせる。

(v) 語根 √vas (住む), √ṭhā (立つ), √si (横になる), √pad (歩む), √vis (入る) に、動詞接頭語 anu, upa, abhi, adhi, ā, ni が付くとき、 これらの動詞は対格を支配します: gāmaṁ upavasati. 彼は村の近くに住む。 nagaraṁ adhivasanti. 彼らは街の中に住んでいる。 mañcaṁ abhinisīdeyya. 彼はベッドに座るべきだ。 sakkassa sahabyataṁ upapajjati (彼女は) サッカ神のそばに行った、サッカ天に生まれ変わった。

(vi) 対格は、処格の代わりに使われます: nadiṁ pivati = nadiyaṁ pivati 彼は川で飲む。 gāmaṁ carati = gāme carati. 彼は村を歩き回る。

(vii) 以下の不変化詞は、対格を支配します: abhito (近くで、…のいるところで、両側に), dhi, dhī (クソ!), dhi-r-atthu (ああ忌々しい), antarā (間に、途中で), parito (まわりに、あらゆる場所に、どの側にも), anu (~のそばで、劣った), pati (~に向かって、近くで), pari (まわりに), upa (より劣った), antarena (~を除いて、~なしで), abhi (前で)。 abhito gāmaṁ vasati. 彼は村のそばに住んでいる。 dhī brāhmaṇassa hantāraṁ バラモンを殺すクソ野郎! dhī-ratthu maṁ pūtikāyaṁ 私の腐った体め! upāyaṁ antarena 方法なしで。 maṁ antarena 私を除いて。 antarā ca rājagahaṁ ラージャガハまで(行く)途中に。 parito nagaraṁ 街の周りに。 sādhu devadatto mātaraṁ anu デーバダッタは母に優しい。 anu sāriputtaṁ サーリプッタより劣って。 pabbataṁ anu 山のふもとで。 sādhu devadatto mātaraṁ pati. デーバダッタは母に優しい。 nadiṁ nerañjaraṁ pati ネーランジャラ川の近くで。 upa sāriputtaṁ サーリプッタより劣って。

(viii) 時間の長さは、対格にします: divasaṁ 一日中。 taṁ khaṇaṁ その瞬間に。 ekaṁ samayaṁ あるとき。

(ix) 序数を対格にすると、回数を意味します。 dutiyaṁ 二回目に。 tatiyaṁ 三回目に。

(x) 距離も、対格で表します: yojanaṁ gacchati. 彼は一由旬行く。

(xi) 対格は、副詞的に使われることがとてもよくあります: khippaṁ gacchati. 彼はすばやく行く。 hatthanillehakaṁ bhuñjati. 彼は手を舐めながら食べる。

注意: これを副詞的対格と言います。

5. 具格

599. (i) 行動をする動作主と、行動をするときに使う道具は、 具格にします。 cakkhunā rūpaṁ passati. (人は) 目によって形を見る。 hatthena kammaṁ karoti. (人は) 手によって仕事をする。 dāsena kato 奴隷によってなされた。

(ii) 具格は、原因や理由を表します。 rukkho vātena oṇamati. (その) 木は風のせいで下に曲がった。 kammunā vasalo hoti. (彼は自分の) 仕事のせいで、賤民である。 ですから具格は、「~の手段で」「~の理由で」「~を通じて」「~のおかげで」 などと訳せます。

(iii) 人が移動するときの乗り物は、具格にします: yānena gacchati 彼は車に乗って行く。 vimānena gacchiṁsu (空飛ぶ) 豪邸に乗って行く。 hatthinā upasaṅkamati 彼は象に乗って近づいた。

(iv) 物を売り買いする値段は、具格にします: kahāpaṇena no detha (あなたたちは) 一カハーパナ (=安い硬貨) で (それを) 私たちに売ってくれ。 satasahassena kiṇitvā 十万 (の金) で買って。

(v) 移動の方向、経路、道は、具格で表します: tā sālādvārena gacchanti. 彼女らは講堂の扉を通っていった。 kena maggena so gato どの道を通って彼は行ったのか?

(vi) 具格は、体の弱ったところ、欠陥個所を表すためにも使います。 駄目になった体の部分や臓器を具格にします: akkhinā so kāṇo 彼は片目が見えない。 hatthena kuṇi 手のひん曲がった。

(vii) 生まれ、血筋、起源、生来を意味する語は、具格にします: jātiyā khattiyo buddho. 仏陀は、生まれはクシャトリヤだ。 pakatiyā bhaddako 生まれもって善人の。

(viii) 具格は、「(時間) 後に」を表します: divasena patto 一日後に着いて。 ekena māsena nagaraṁ gacchi. 彼は一ヶ月後に街に着いた。

(ix) また、「~のときに」を表します: tena samayena そのときに。

(x) 具格は、同伴を意味します。そのときは一般的に、 不変化詞 saha, saddhiṁ (…と一緒に) を伴います。 nisīdi bhagavā saddhiṁ bhikkhusaṅghena 世尊は、比丘衆とともに座った。

(xi) 「…が何の役に立つ」などを、 パーリ語では、物の具格と人の与格で表します: kin te jaṭāhi dummedha もつれ髪によってお前に何の (得) がある、愚か者よ。 kin nu me buddhena? いったい仏陀によって私に何の (得) があろう?

(xii) attho (欲望、必要) は、欲しい物の具格と、人の与格を採ります: maṇinā me attho 宝石によって私に欲望がある、私は宝石が欲しい。

(xiii) alaṁ (充分) は具格を支配することもあります: alaṁ idha vāsena ここでの生活はもう充分だ。 alaṁ buddhena 仏陀はもう充分だ。 (訳註: 与格支配のときは「~がふさわしい」、具格支配のときは「~はもう充分だ、飽き飽きした」 という意味になるようです)

(xiv) 「分離」を意味する語は、一般的に具格を伴います: piyehi vippayogo dukkho. 愛しい人々と別れるのは苦しい。

(xv) 不変化詞 saha, saddhiṁ, samaṁ (…とともに), vinā (…なしで、…を除いて) は具格を支配します: vinā dosena 欠陥なく。

注意: saha は、「同等」を表すことも時々あります: puttena saha dhanavā pitā 息子と同じくらい金持ちの父。

(xvi) 「運ぶ、取ってくる」のような動詞は、 運ぶのに使う場所を具格で採ります: sīsena dārukalāpaṁ ucchaṅgena paṇṇaṁ ādāya 頭に薪の束を、尻に葉を載せて。

(xvii) 具格は、しばしば副詞的に使われます (上を見てください)。

(xviii) 具格を支配する前置詞もたくさんあります。

6. 奪格

600. (i) 奪格の主要な意味は「…から」です。 つまり、分離を表します。 奪格は他にもたくさんの関係を表しますが、 その中にも、分離という主要概念が多かれ少なかれ見出されます。

(ii) 分離: gāmā apenti. 彼らは村から出ていった。 so assā patati. 彼は馬から落ちた。

(iii) 方向の起点: avīcito upari 無間地獄より上に。 uddhaṁ pādatalā 足裏より上に。

(iv) 「(場所) の中で」行為がなされるとき、 その場所は奪格にします。このような場合、 ネーティブの文法学者によれば、暗黙に動名詞が あるとされることがあります。しかし、 これらの表現に対応するものは、日本語にもあることに気付かれるでしょう: pāsādā oloketi. 彼は宮殿から見下ろした。 この表現は、次と同等だとされます: pāsādaṁ abhirūhitvā pāsādā oloketi. 彼は宮殿に登って、宮殿から見下ろした。

(v) 長さ、幅、距離は、奪格にします: dīghaso navavidatthiyo 九尺の長さ。 yojanaṁ āyāmato 長さ一由旬。 yojanaṁ vitthārato 幅一由旬。

注意: これらの例では、具格が使われることもあります: yojanaṁ āyāmena, yojanaṁ vitthārena

(vi) ある場所から人や動物が追い出される、あるいは入れないようにされるとき、 その場所は奪格にします: yavehi gāvo rakkhati 彼は大麦に牛を近づかせない。 taṇḍulā kāke vāreti. 彼は米にカラスを近づかせない。

(vii) 「隠す、隠れる」の動詞は、「~から隠す」の~にあたる人を奪格にします: upajjhāyā antaradhāyati sisso. (その) 弟子は、師から隠れる。

注意: このような表現では、属格を使うこともできます: antaradhāyissāmi samaṇassa gotamassa. 私は沙門ゴータマから隠れよう。

(viii) 動詞 antaradhāyati が、「消える、姿を消す」を意味するときは、 「~からいなくなる」の~は処格になります: jetavane antaradhāyitvā ジェータ林からいなくなって。

(ix) また、「自然現象」が消える、というときは、主格を使います: andhakāro antaradhāyati. 闇が消える。

(x) 「差し控える、避ける、解放する、恐れる、忌み嫌う」の動詞は、 奪格を支配します。 pāpadhammato viramati. 彼は罪を犯さない。 so parimuccati jātiyā. 彼は生まれ変わりから解放された。 corehi bhāyāmi. 私は盗賊が怖い。

(xi) 奪格は、「動機、原因、理由」を意味することもあります。 その場合は、「~のために、~によって、~の理由で、~を通じて」 などと訳せます: vācāya marati. 彼は言葉が原因で死んだ。 sīlato naṁ pasaṁsanti. (彼らは) 美徳によって彼を褒める。

注意: これらの例では、具格を使うこともできます: sīlena pasaṁsanti.

(xii) 近接を意味する語とともに使われます: gāmā samīpaṁ 村の近くで。

注意: これらの例では、属格を使うこともできます。

(xiii) 「…から生まれる、生じる」の動詞は、 奪格を支配します: corā jāyati bhayaṁ. 盗人から恐怖が生じる。

(xiv) 以下の不変化詞は奪格を支配します: ārakā (遠くで): ārakā tehi bhagavā 彼らから遠いところに世尊はいる。 upari (上に、向こうに): upari pabbatā (山の向こうに)。 pati (…に反対して、…の代わりに、…の返しに)。 rite (…を除いて、なしで)。 aññatra, vinā (…なしで、除いて)。 nānā (…と違った、…から離れて)。 puthu (母音の前で puthag) (別々に、なしで、除いて)。 ā (…まで)。 yāva (…まで)。 saha (…とともに)。 buddhasmā pati sāriputto サーリプッタは仏陀の代わりをする。 rite saddhammā 真の法なしで。

(xv) 具格、対格、属格、処格の代わりに奪格を使うことが、 非常によくあるということに、注意してください。 たとえば: vinā saddhammā または vinā saddhammaṁ または vinā saddhammena

7. 処格

601. (i) 処格は、人や物がいる場所、あるいは、行為がなされる場所を 表します。日本語には「~で、~において」と訳せます。 kaṭe nisīdati puriso. 男は敷物に座っている。 thāliyaṁ odanaṁ pacati. 彼は鍋で粥を料理する。

(ii) 処格は、行為の「原因、理由、動機」を表します: dīpī cammesu haññante ヒョウは皮のために殺される。 kuñjaro dantesu haññate 象は牙のために殺される。

(iii) 処格は、行為の起きる時刻を表します。 sāyaṇhasamaye āgato 彼は晩にやってきた。

(iv) ある一つの人や物が、その所属する集団の中で 特に秀でているとき、あるいは、最上級の形容詞で形容されるとき、 それが何の中で最上なのか、は、処格か属格で表します。 manussesu khattiyo sūratamo クシャトリヤは、人々の中で最も勇敢だ、 または manussānaṁ khattiyo sūratamokaṇhā gāvīsu sampannakhīratamā 黒いやつが、牛の中で最も乳が多い。 または kaṇhā gāvīnaṁ sampannakhīratamā

(v) 以下の語は、処格か属格を支配します: sāmī (主人), issaro (王), adhipati (首長), dāyādo (継承者), patibhū (担保), pasūto (子孫、子供), kusalo (巧みな)。 gonesu sāmī 牛の持ち主、または gonānaṁ sāmī

(vi) 「幸せだ、満足だ、欲しがる」を意味する語は、 処格か具格を支配します: ñāṇasmiṁ ussuko 知を切望する、または ñāṇena ussukoñāṇasmiṁ pasīdito 知に満足する、または ñāṇena pasīdito

(vii) 崇敬する、尊敬する、愛する、喜ぶ、挨拶する、 取る、捕まえる、打つ、キスする、好む、崇める、 を意味する語は、処格を支配します: pāpasmiṁ ramati mano 意は邪悪を喜ぶ。 bhikkhūsu abhivādenti. 彼らは僧侶たちに挨拶する。 pāde gahetvā papāte khipati. 彼は足を掴んで、崖に投げた。 purisaṁ sīse paharati. 彼は男の頭を叩いた。

(viii) 処格は、(主語)があるものを気にとめない、ということを 表すために、使われることがあります。 rudantasmiṁ dārake pabbaji 彼は、子供が泣くのにもかかわらず、出家した。 属格を使うこともあります: rudantassa dārakassa pabbaji. (「絶対処格・絶対属格」をご覧ください)

(ix) 処格は、upa, adhi を伴って、それぞれ「より優れている方」「より劣っている方」 を表します。 upa khāriyaṁ doṇo. ドーナ(升の一種) はカーリー(升の一種) より劣る。 adhi brahmadatte pañcalā. パンチャラ国は、ブラフマダッタに支配されている。 adhi devesu buddho 仏陀は、神々より勝る。

(x) 処格は、「近いこと」を意味します: nadiyaṁ sassaṁ 川の近くの穀物。 tassa paṇṇasālāya hatthimaggo hoti. 彼の隠居小屋の近くに、象の道がある。

(xi) 処格は、処格の分詞とともに、絶対的に用いられます (「絶対構文」を参照)

(xii) 辞書の中では、処格は「…の意味で」を表します: ru sadde 「√rusadda (音を立てる) の意味」

(xiii) 「ふさわしい」を意味する語は、処格を支配します: tayi na yuttaṁ あなたにふさわしくない。 属格を使っても同じ意味です: tava na yuttaṁ

(xiv) 処格は、他の格の代わりに広く使われます。 ですから、他の格があるべきところに処格がある、という場面に 非常によく出くわしますので、注意してください。

ただし、処格が代わりに使えるときでも、ほとんどの場合は 各々の格が使われます。

(xv) 処格は属格の代わりに使われます (上の v を参照)

(xvi) 処格は具格の代わりに使われます。 pattesu piṇḍāya caranti 彼らは鉢を持って、食べ物を求めて歩きまわる。

(xvii) 処格は与格の代わりに使われます。 saṅghe dinnaṁ mahapphalaṁ 僧伽に施すことには、大きな実りがある。

(xviii) 処格は奪格の代わりに使われます。 kadalīsu gaje rakkhanti. 彼らはバナナの木に象を近づかせない。

(xix) 処格は、副詞的にもよく使われます。 atīte 以前は。

8. 呼格

602. 呼格には、何の説明も必要ありません。「~よ」と呼びかけるだけです。

絶対属格・絶対処格

603. (i) 名詞・代名詞と分詞が、どちらも処格で、あるいはどちらも属格で、 一緒に使われるとき、この構文を絶対処格絶対属格と 言います。絶対処格構文のほうが、絶対属格よりもずっとよくでてきます。 絶対主格構文も時々見られますが、これら二つよりずっとまれです。

(ii) 絶対処格・絶対属格・(時に) 絶対主格は、 「~しているときに、~している間に、~なので」と訳せることが多いです。 また、「~にもかかわらず」の意味になることも時々あります。 tesu vivadantesu bodhisatto cintesi. 彼らが言い争っているとき、菩提薩埵は考えた。 suriye atthaṅgate 太陽が沈んでから。 gāvīsu duyhamānāsu gato. 牛が乳を搾られている間に、彼は出かけた。 asaniyā pi sīse patantiyā 雷が頭に落ちてきているにもかかわらず。

(iii) 動詞 atthi (である) の現在分詞 santo の 単数処格 sati は、上記の意味以外に、 「もし…ならば」と訳せることも多いです: atthe sati もし必要があれば。 evaṁ sati もしそうならば。 payoge sati 機会があれば。 女性名詞と一緒に使うときは、本来は satiyā (女性形) となるべきですが、 sati の形も使います: pucchāya sati もし質問があれば。 ruciyā sati 欲望があれば、願いがあれば。

(iv) 絶対属格は、絶対処格よりは出てくる機会が少ないですが、 それでもよくでてきます: sākuṇikassa gumbato jālaṁ mocentass'eva 野鳥を狩る人が茂みから網を外している間にも。 tesaṁ kīḷantānaṁ yeva suriyatthaṅgatavelā jātā 彼らが遊んでいる間にも日没の時間になった。

(v) いわゆる絶対主格といわれるものもあります: gacchanto bhāradvājo so addasā accutaṁ isiṁ. バーラドバージャが行くと、彼は永遠の聖者を目にした。 yāyamāno mahārājā addā sīdantare nāge. 王が行く間に、彼はシーダンタラ海に竜たちを見た。

注意: 絶対属格は、しばしば「無視、軽視」を表します。 その場合の訳は、「…なのにそれでも」となります。 例については、(601,viii) をご覧ください。

(v) 形容詞の構文

604. (i) すでに述べたように、形容詞は、他の語と複合語にならないときは、 自分に修飾される語と、必ず性・数・格が一致しなくてはいけません。

(ii) 比較級の形容詞は、奪格を伴います: sīlaṁ eva sutā seyyo 美徳は、博識よりも良い。

(iii) 原級の形容詞が、奪格を伴うことで、比較を表すこともあります: māthurā pāṭaliputtakehi abhirūpā マトゥラーの人々は、パータリプッタの人々よりも格好いい。

(iv) 不変化詞 varaṁ (よりよい) と奪格とで、比較を表すこともあります: tato varaṁ それより良い。

(v) 「二つの~のうちの良いほう」は、属格と原級で表します: tumhākaṁ dvinnaṁ ko bhaddako あなたたち二人のうち、どちらが良いほうか?

(vi) 最上級の形容詞は、属格か処格を伴います。 例については (601,iv) をご覧ください。

(vi) 代名詞の構文

605. 1. 人称代名詞

(i) 人称代名詞の使い方は、英語とだいたい同じですので、 特別な注意は必要ないです。 ただし、ahaṁtvaṁ の前接語形 (289-b,c;290-c) には触れておくべきでしょう。

(ii) ahaṁ の前接語形 me, no と、tvaṁ の前接語形 te, vo は、 文の最初には決して使われません。また、不変化詞 ca, vā, eva の直前に来ることもありません。 detu me 彼が私に与えろ。tava vā me hotu それがあなたのであれ、私のであれ。 kammaṁ no niṭṭhitaṁ 私たちの仕事は終わった。 ko te doso お前の欠点は何だ? kahaṁ vo rājā あなたがたの王はどこだ?

(iii) 動詞が文にあるときは、時制の語尾が人称も明確に表していますから、 人称代名詞は明示しないことがよくあります。 gacchati (彼は)行く = so gacchati. gaccheyyāmi (私は) 行くべきだ = ahaṁ gaccheyyāmi.

(iv) 三人称の人称代名詞 so, sā, taṁ は、 指示代名詞や冠詞として使われることもあります。 「一致」(589) をご覧ください。ですから、 so puriso は文脈によって 「(さっき言及した) その人」 のこともありますし、「(指差して) その人」という意味のこともあります。

(v) tasmā (奪格) は、「ゆえに、したがって、このことから」という意味で、 副詞的に使われます。 また、その後ろに hi, ti ha (= iti ha) を伴っても同じ意味です: tasmā hi paññā ca dhanena seyyo ゆえに、知恵は富よりも良い。 tasmā ti ha bhikkhave だから、比丘たちよ。

(vi) tena (具格) も tasmā と同じ意味で使われます: tena taṁ madhuraṁ ゆえに、それは甘い。 また、tena hi は「よし、それでは」という意味です: tena hi khādāpessāmi nan ti. いいだろう、ではそいつを (お前に) 食わせてやろう、と。

(vii) naṁ, enaṁ (295,300) は、すでに言及した物や人を 指し示す場合に使われます。(296) を見てください。

606. 2. 指示代名詞

(i) eso, esā, etaṁ (298) は、近くにあるものを指して、「これ」を意味します。 esā itthī この女。nirupakāro esa この (人) は役立たずだ。

同じことが、ayaṁ, asu (これ) についても言えます。

注意: eso の代わりに esaso の代わりに sa が使われることも多いです。

(ii) 中性形 etad (= etaṁ (302)) が、動詞 hoti と、人の属格とを伴うと、 「この思い」という意味になります: tassa etad ahosi 彼にはこの思いがあった、彼はこう思った。

607. 3. 関係代名詞

(i) 関係代名詞は、(592) ですでに説明しました。 ここでは、その特殊な使い方の中でも、最も重要なことを 少しだけ述べれば充分です。

(ii) yo (311) は、不定代名詞 koci (319) と一緒に使うことがあります: yo koci ... の人は誰でも。yaṁ kiñci ... の物は何でも。(314-a,b)

(iii) 中性単数 yaṁ は、「なぜなら~、~こと、~を見るに、もし~、~とき」 という意味で、副詞的に用いられることがよくあります: taṁ bahuṁ yaṁ pi jīvasi. あなたが生きていることは大きい。 (訳註: 関係詞節 yaṁ pi jīvasi (あなたが生きていること) の中で、 yaṁ は主語でも目的語でもありません。ですので副詞です。 英語の that 節に相当します)

(iv) 具格 yena は、「~をする手段、なぜなら~」という意味で、 副詞的に用いられます: yena naṁ gaṇhissāmi 私が彼を捕まえる手段。

(v) 特定の場所への移動を表現するときは、 yenatena を組み合わせて使います: yena bhagavā, ten'upasaṅkami 世尊の (いる) ところに、彼は近づいた。 (英語: Where was Bhagavā, there he approached.)

(vi) yasmā (奪格) は、「なぜなら~」の意味で使われす。 その場合は、一般的に tasmā (だから~) を伴います: yasmā tvaṁ na jānāsi tasmā bālo'sī ti. あなたは (物を) 知らないから、馬鹿である、と。

608. 4. 疑問代名詞

(i) 疑問代名詞 ko (316) は、それだけで使うこともできますし、 名詞・代名詞を伴うこともできます: ko pana tvaṁ ではお前は誰だ? ke ete この (人々) は誰だ? kā dārikā どの女の子だ?

(ii) kena (具格) は、attho と人の与格とを伴って、 「(人) は何が欲しい?」という表現を作ります: kena te attho 君は何が欲しい?

(iii) kena (具格), kasmā (奪格), kissa (属格) は、 「なぜ?」という意味で、副詞的に使われます。

(iv) kiṁ は、具格を伴って「(具格)が何の役に立つ?」という表現を よく作ります: kiṁ me jīvitena ? 命が私のために何の役に立つ?

609. 5. 不定代名詞

不定代名詞 (319) には、特記することはありません。 mā idha koci pāvisi. ここに誰も入るな。 kiñci bhayaṁ どんな恐怖も。

(vii) 反復

610. 「複数、全体、分配、多様、多数」などを表現するために、 単語を繰り返すことが時々あります: tesu tesu ṭhānesu あちこちの場所で。 taṁ taṁ kathayamānā あれこれ言いながら。 yo をこのように繰り返すと、「誰でも、何でも、どれでも」の意味になります: yaṁ yaṁ gāmaṁ どの村でも。 itarā ten'eva niyāmena yā yā kiñci katheti tassa tassa upari kacavaraṁ chaḍḍesi. このような様子で、他方の (女) は、何かを言う人全員の上に、ごみを投げた。 so diṭṭhadiṭṭhamanusse jīvitakkhayaṁ pāpeti. 彼は出会う者出会う者、皆に死をもたらす。 gatagataṭṭhāne どの場所でも。 yena yena ~する手段は何でも。 ubbahīyati so so 皆が皆、敗走した。

(viii) 動詞の構文

611. (i) 主語と動詞の一致については、すでに述べました (590,1)。

(ii) 現在時制は、今起きている行動、今存在する事実を意味します: so bhāyati. 彼は心配する。 sā pacati. 彼女は料理する。

(iii) 現在時制は、行動の継続を意味することがよくあります。 その場合は、英語の現在進行形と同じ意味になります: sā gabbhe nisīdati. 彼女は私室に座っている。

(iv) 癖、習慣、一般の事実は、現在時制で表現します: sabbe maranti. 全ての (人) は死ぬ。 bhikkhu sīlaṁ ācarati. 僧は道徳を実践する。

(v) 現在時制は、未来の意味で使われることも時々あります: kiṁ karomi 私は何をしようか?

(vi) 昔のことを語るとき、それがあたかも今起こっているかのように、 現在時制を使うことがきわめて頻繁にあります。 これを歴史的現在と言います: so pañcamāṇavakasatāni sippaṁ uggaṇhāpeti. 彼は五百人の若者に学問を教えていた (直訳: 教えている)。

(vii) 疑問詞を使わないとき、現在時制の動詞を文頭に持ってくることで、 疑問を表すことが時々あります: socasi tvaṁ upāsaka お前は悲しいか、在家信者よ?

注意: 他の時制も、同様の方法で疑問を表すことができます。

過去時制

612. 完了、未完了、アオリスト。

(i) 完了時制と未完了時制には、難しいことはありません。 この二つは普通、一般的な過去を意味します。 何も注意することはありません。ただし、完了時制はまれにしか 使われないことを頭に留めておいてください。 また、未完了時制は、完了時制よりはよく見かけますが、 意味の違いがあることはまれです。 そして、この二つの時制は、一般的にアオリストに取って代わられました。

(ii) アオリストは、パーリ語における主要な過去時制です。 広く使われます。不特定の過去を表しますが、その日の出来事も含んでいます。 アオリストは、英語の現在完了か、不特定の過去として訳せます (405)。 catuppadā pi ekaṁ sīhaṁ rājānaṁ akaṁsu. 四足動物たちも、あるライオンを王にした。 mukhe pahari. 口を殴った。 kena kāraṇena rodi どうしてお前は泣いたのか? brāhmaṇo eḷakena saddhiṁ vicari. バラモンはヤギと一緒に歩きまわった。

(iii) 不変化詞 は、アオリストと一緒に用いられて禁止を表します: eḷaka, mā bhāyi ヤギよ、恐れるな。 mā puna evarūpaṁ akāsi. 二度とそんなことをするな。 tāta, mā gami. 息子よ、行くな。

未来時制

613. (i) 未来時制は、単純な未来を表します: ahaṁ gacchissāmi 私は行くだろう。 te marissanti. 彼らは死ぬだろう。

(ii) 未来時制は、恭しく命令を与えるときに、 穏やかな命令形として使うこともあります: tvaṁ tassa bandhanaṁ dantehi khādissasi. お前は彼の束縛を歯で食いちぎりなさい。

(iii) 不変化詞 ce, sace, yadi と未来時制とで、単純な条件を表します: yadi tvaṁ yāguṁ pacissasi ahaṁ pivissāmi. もし君が粥を作れば、僕は (それを) 飲もう。 so tañ ce labhissati, tena saddhiṁ gaccha. 彼がそれをもし手に入れれば、彼と一緒に行け。

(iv) bhavissati (bhavati (である) の三人称単数-未来) は、 しばしば「~であるに違いない」という意味で使われます: corā paṭhamaṁ ñeva bherisaddaṁ sutvā issarabheri bhavissatī ti palāyitvā 盗賊たちは、最初に太鼓の音を聞いて、領主の太鼓に違いないと (言って) 逃げて。 ayaṁ me putto bhavissati これが私の息子に違いない。

(v) 否定詞 na + bhavissati は、「~であるはずがない」と訳せます: nāyaṁ issarabheri bhavissati. これは領主の太鼓であるはずがない。

(vi) jānissāmi (jānāti (知る) の一人称単数-未来) は、 慣用句的に「取り計らっておく」という意味でよく使われます: hotu, pacchā jānissāmi. いいだろう、後で私が取り計らっておく。

希求法

614. (i) 希求法は、「推測、可能、適当、賛成・許可、命令、願望、条件」 を表します。また、規則や教訓を制定する場合にも使われます。

(ii) 適当: tvaṁ tattha gaccheyyāsi. お前はそこに行くのがよい。

(iii) 願望: ahaṁ imaṁ tumhākaṁ bhājetvā dadeyyaṁ. 私はこれを、あなた方に分け与えたいのだが、しかし…。

(iv) 命令: tvaṁ pana ito paṭṭhāya ovādānusāsaniṁ dadeyyāsi. ではこれからは、あなたが助言と教えをお与えください。 udarena nipajjeyyāsi. 腹を下に横になれ。

(v) 推測: api ca nāma gaccheyyāmi. たぶん私が行くだろう。

(vi) 条件: 普通、ce, sace, yadi (もし) の後ろに来ます: sāmi, sace imāya velāya tava sapattaṁ passeyyāsi kin ti taṁ kareyyāsi? 卿、もしこの瞬間に、あなたの敵をご覧になったら、どのように彼をなさいましょう?

(vii) 仮定を表すときは、希求法とともに yathā を使うことが時々あります: yathā mahārāja kocideva puriso padīpaṁ padīpeyya 仮に大王よ、誰か人が明かりを灯すとすれば。

(viii) 許可: tvaṁ idāni gaccheyyāsi. お前はもう行ってよい。

条件時制

615. 条件時制は、実行するにあたって何か障害があり、 完遂できない行動を表します: so ce taṁ yānaṁ alabhissa agacchissā. 彼は仮にその乗り物が手に入れば、行くだろうに。 bho satthavāsino, sace esa rukkhamūle caṅkamanakatāpaso ajja nābhavissa, sabbe mahāvilopaṁ pattā abhavissatha. 友なる行商人たちよ、仮に木の下にこの歩き回る苦行者が今日いなければ、 皆は大略奪されていたろう。

命令法

616. (i) 命令法は、命令するときに使います: tena hi, gaccha よしそれでは、行け。

(ii) 懇願を表すこともあります: bhante bhagavā appossukko viharatu. 大徳よ、世尊は気苦労なく暮らしてください。

(iii) 祈り、祝福: vassasataṁ jīva あなたが百年生きますように。

(iv) + 二人称命令法は、単純な禁止を表します (アオリスト (612,iii) も参照): mā evaṁ karotha. 君たちはそんなふうにしてはいけない。

(v) bhavati (である) の三人称単数-命令法は、「いいだろう」の意味で、 慣用句的に使われることがよくあります: hotu, ahaṁ jānissāmi. いいだろう、私が取り計らっておこう。

不定詞

617. (i) 不定詞は、「目的、動機、意図」を表します。 不定詞は、能動的にも、受動的にも使われます。 uyyānapālo chaḍḍetuṁ upāyaṁ na passati. 庭師は、(それを) 捨てるための方法がわからなかった。 taṁ gantuṁ, na dassāmi そこに行くため (の許可を)、私は与えないだろう。

(ii) 不定詞は、「願う、試す、努力する、始める、できる」を意味する動詞と ともに使われます: sā rodituṁ, ārabhi. 彼女は泣き始めた。 na koci mayā saddhiṁ sallapituṁ sakkoti. 誰も私と話すことができない。 sā pavisituṁ na icchati. 彼女は入りたがらなかった。 so taṁ ukkhipituṁ ussahati. 彼はそれを持ち上げることができた。

(iii) 不定詞 + dadāti (与える) は、「~させてやる、許す」の意味になります。 また、不定詞 + labhati (得る) は、「~することを許される」となります。 taṁ paharituṁ na dassāmi. 彼を叩くことを、私は許さないだろう。 gehabahi nikkhamituṁ alabhanto. 家の外に出ることを許されずに。

(iv) vaṭṭati (義務だ、ふさわしい) のような動詞や、 yutto (ふさわしい) のような形容詞は、不定詞とともによく使われます。 vaṭṭati の場合は、その動作をするべき人を具格にします: ettha dāni mayā vasituṁ vaṭṭati 今、生きることは私にふさわしい (私は生きるべきだ)。 人を明示しないこともあります: taṁ harituṁ vaṭṭati 彼を殺すのが一番だ、殺すのが良い。 evaṁ kathetuṁ na yuttaṁ. このように話すのは適当でない。

(v) 不変化詞 labbhā (可能だ、許される) と sakkā (可能だ、できる) は、 不定詞とともに使われます。sakkāvaṭṭati とだいたい同じように使われます。 つまり、能動的にも受動的にも使われて、人の具格をしばしば伴います。 hotisakkā に続くことがよくあります: sakkā hoti methunaṁ dhammaṁ paṭisevituṁ. 性行為を行うことは可能だ。 etasmiṁ ṭhāne na sakkā vasituṁ. この場所に住むことはできない。 idaṁ na labbhā evaṁ katuṁ. それをこのようにすることはできない。

(vi) kāmo (望んでいる) が不定詞と複合語を作るときは、 不定詞の末尾の は落ちます: devatāya balikammaṁ kāretukāmo 神への供物をさせたがっている。

動名詞

618. (i) 動名詞は、必ず、他の動作より前に完了した動作を表します。 「~してから、して」などと訳せます。gantvā 行ってから、行って。 動名詞は非常に広く使われますから、パーリ語で最も一般的な接続語となります。 動名詞があることによって、文を繋ぐ「そして」のような接続詞の必要が、実質的になくなります。 so taṁ ukkhipitvā gharaṁ netvā catudhā vibhajitvā dānādīni puññāni katvā yathākammaṁ gato. 彼はそれを持ち上げて、家に持っていき、四つに分け、施しなどの善行をして、業のとおりに行った。

(ii) 動名詞の後ろに va (= eva) が続くと、「~するやいなや」という意味になります: taṁ vacanaṁ sutvā va この言葉を聞くとすぐに。 so vānaro attano puttaṁ disvā va その猿は、自分の子を見るやいなや。

(iii) 動名詞の後ろに不変化詞 api が続くと、「~にもかかわらず」という意味になります: akataññū puggalo cakkavattirajjaṁ datvā pi tosetuṁ na sakkā. 感謝を知らない人は、輪転王の王権を与えられても、満足することができない。

(iv) 動名詞の前に a が付くと、「~せずに」という意味になります: papañcaṁ akatvā 遅れを作らずに、遅れずに。 ekaṁ pi akilametvā 一人だって害せずに。

(v) 前置詞的に用いられる動名詞もあります。 主なものは: paṭṭhāya (~して以降、~を始まりとして), sandhāya (~に関して), ārabbha (~に関して), sañcicca (故意に), asallakkhetvā (不注意に、気づかずに), nissāya, upanissāya (~の理由で、~を用いて、~の近くで), ādāya (~とともに), paṭicca (~によって、~に基づいて、~の理由で), ṭhapetvā (~を除いて)

(vi) 動名詞は、英語に訳すと現在分詞になることが時々あります: idha āgantvā ahaṁ coraṁ passiṁ. ここにやってきて、私は盗人を見た。 (英: Coming here, I saw the thief.) (訳註: 英語のほうが having come となるべきところの having を省略しているのであって、パーリ語の性質ではない気がします)

(vii) 動名詞は、受動の意味になることもあります: corajeṭṭhakena gahetvā 盗賊の首領に捕えられて。

分詞

619. 1. 現在分詞

(i) 現在分詞は、「~している間に」と訳せることが一般的です。 これが現在分詞本来の意味です。現在分詞は、必ず、 動作の同時性を表現します。 attano gāmaṁ gacchanto corāṭaviṁ patvā 自分の村に赴く間に、盗賊の住む森にたどり着いて。 tattha gantvā mātaraṁ paṭijagganto vāsaṁ kappesi. そこに行くと、母の世話をしながら (そこに) 彼は居を構えた。

(ii) 分詞は形容詞の性質を持つことを (439) 思い出してください。 ですから、分詞は形容詞と同様、修飾される名詞と一致しなくてはいけません: avīcinirayaṁ gacchantā sattā 無間地獄に向かう人々。 āgacchantaṁ taṁ disvā pi 彼がやってくるのを見たけれども。

(iii) 現在分詞は、時に「~する人」という意味で、名詞的に使われることがあります。 idaṁ pana paralokaṁ gacchantassa pātheyyaṁ bhavissati. しかしこれは、あの世に行く者の食糧となるだろう。 paralokaṁ gacchanto ekaṁ kahāpaṇaṁ pi gahetvā na gacchati. あの世に行くものは、一銭も持って行けない。

(iv) 現在分詞は、条件節として訳せることも時々あります: taṁ labhanto jīvissāmi alabhanto idh' eva marissāmi. 彼女を得られれば、僕は生きよう。得られなければ、まさにここで死のう。 aḍḍhamāse sahassaṁ labhanto upaṭṭhahissāmi deva. 半月ごとに千を得られるなら、私は仕えましょう、王よ。 evaṁ karonto lacchasi akaronto na lacchasi. そうすればあなたは得られるだろう。しなければ得られないだろう。

(v) 現在分詞 + 不変化詞 pi (= api) は、 「~しているけれども」という意味になります: pitarā vāriyamāno pi 父に邪魔されていても。 taṁ apassanto pi 彼を見ることはできないけれども。

620. 2. 過去分詞

(i) 過去分詞には二つあります。 完了分詞-能動態 (231,465) と、受動完了分詞 (450) です。

(ii) 完了分詞-能動態には、難しいところはありません。 so sīhaṁ ādinnavā 彼はライオンを捕まえて。 bhattaṁ bhuttāvī 食事を摂ってから。

(iii) 受動完了分詞は、定形動詞の代わりに、述語として用いられることが非常によくあります (「主語と述語の一致」(590))。その場合は、過去形に訳します。

(iv) 移動を意味する語根の受動完了分詞と、他動詞の受動完了分詞は、 対格を採ります: sakanivāsaṁ eva gato 自分の家に帰った。

(v) この例のように、述語として用いられる受動完了分詞は、 その後ろに動詞 hoti (である) が暗黙に存在する、と一般的に考えます。

(vi) 受動完了分詞の動作主は、具格にするのが普通です。 tayā pañhaṁ puṭṭhaṁ 彼女によって (その) 質問は尋ねられた。 sāsanaṁ mayā likkhitaṁ 便りが私によって書かれた。

(vii) 受動完了分詞は、英語に訳すと、現在分詞になることが まれではありません: tato uppatito vijjullatā viya vijjotamāno paratīre aṭṭhāsi. そこから跳びあがって、雷光のように光りながら、向こう岸に立った。 (英: Springing from there,...) (訳註: 英語のほうが Having sprung... となるべきところの Having を省略できるだけであって、パーリ語の性質ではないと思います)

621. 3. 未来分詞

(i) 未来分詞 (449) は、動作主がまさにその動作をしようとしている、 あるいは、語根の意味する状態になろうとしている、という意味です。 raṭṭhā raṭṭhaṁ vicarissaṁ 王国から王国に行こうとしている。 taṁ ganthaṁ racissaṁ ahaṁ 私はまさにその本を書こうとしている。

(ii) 未来分詞は、目的・意図を表すこともあります。 上記 (i) の第二例がそれです。

(iii) 未来分詞は、単純な未来を表すこともあります。 nāhaṁ puna upessaṁ gabbhaseyyaṁ 私は二度と子宮に入らない (生まれ変わらない) だろう。

622. 4. 未来受動分詞

(i) 未来受動分詞は、「適当、必要、義務」の意味を持ちます。 その訳は「(語根の表すことが) なされるのがよい、なされるべきだ、なされなければならない」 となります: mayā kattabbaṁ kammaṁ niṭṭhitaṁ. 私によってなされるべき仕事は、終わった。 sace so deso uklāpo hoti so deso sammajjitabbo. もしその場所が汚ければ、その場所は掃除されるべきだ。 na navā bhikkhū āsanena paṭibāhetabbā 若い比丘たちは、椅子から追い出されるべきでない。

(ii) 上の例からわかるように、未来受動分詞は、その主語と、 性・数・格が一致しなくてはいけません。

(iii) 未来受動分詞は、動作主を明示しないで使われることがよくあります: kinnu kattabbaṁ 何がなされるべきだ? ettha ca imāni suttāni dassetabbāni そして今、これらの経が説かれるべきだ。 iminā nayena veditabbo このようにして理解されるべきだ。

(iv) (i) の例からわかるように、動作主は具格にします。

(v) bhavitabbaṁ は、物や人の具格とともに、 「(具格) であるべきだ、に違いない」という意味で使われることがよくあります: majjhatten'eva bhavitabbaṁ 中立であるべきだ。 visayojitāya etāya bhavitabbaṁ それは毒入りに違いない。

(ix) 不変化詞の構文

623. (i) 以下の語は、相関的に使われます: yathā ... tathā ~ (… であるのと同様に ~), yāva ... tāva ~ (… と同じだけ長く ~), yadā ... tadā ~ (… のとき、同時に ~), yattha ... tattha ~ (… と同じ場所で ~)。

(ii) ... caca (… も ~ も両方): so ca ahañ ca 彼と私の両方。 ... (… か ~ かどちらか): bhāsati vā karoti vā 彼が話すか行動するか。 ... pipi (… も ~ も両方): siñcati pi siñcāpeti pi 水をまいたり水をまかせたり。

(iii) ... caca と ... は、 否定文中では「... でも ~ でもない」という意味になります。

(iv) ca が単独で使われるときは、決して文頭に来ません。

(v) eva (母音の後ろで yeva) は、単語の意味を強調します。 訳は「まさに、だけ、ちょうど、するやいなや」となります: idāni eva まさに今。 attano yeva まさに自分の。 動詞 + yeva は、訳しづらいこともありますが、大部分は 「~し続ける」などとなります: kathenti yeva 彼らは話し続けた。

(vi) yadi (もし) は、条件文で使われます。 そのとき、動詞は現在時制、未来時制、希求法、条件時制です。 yadi evaṁ, yajj' evaṁ もしそうならば、その場合は。 ... vā yadi vā ~ (... か、もしくは ~ か): gāme vā yadi v'āraññe 村においてか、もしくは森においてか。

注意: 不変化詞のうち最も重要なものの構文は、「名詞の構文」で述べています。

(x) 直接話法・間接話法

624. (i) パーリ語の間接話法構文は、(日本語で言うところの) 直接話法の引用句の後ろに、 不変化詞 iti (そのように) を置くことで作ります: kahaṁ so etarahī ti pucchi. 「今、彼はどこだ?」と彼は訊いた。

(ii) iti は一般的に ti と省略されます。 そして、引用句の最後の母音が短ければ、後ろに ti が来ると長くなります: sādhū ti. 「素晴らしい」と。

(iii) 「言う、教える、訊く、名づける、知る、思う」の動詞は、 一般的に iti とともに使われます。これらの動詞は:

  1. iti の後ろに置かれます: te “sādhū” ti vatvā 彼らは「素晴らしい」と言って。
  2. 引用句の前に置かれます: so pucchi “kiṁ jānāsi tvan” ti. 彼は訊いた「何を君は知っている」と。
  3. 動詞は、完全に省略されることもよくあります: “māressāmi nan” ti 「そいつを殺してやる」と (思った、言った)。
  4. iti, ti の後ろに母音が続くときは、連声が規則通りに起こります: iti + evaṁiccevaṁ; kvaci + itikvacīti
  5. iti は、原因、動機、意図を表して「~だから、~という意図で」という意味に なることもよくあります。 “jīvituṁ asakkontā” ti 「生きることができない (から)」と。 “makasaṁ paharissāmī” ti pitu matthakaṁ dvidhā bhindi 「蚊を叩こう」と (いう意図で)、彼は父の頭を二つに割った。

(xi) 疑問文・否定文

625. (i) 否定文を作る不変化詞は na です: imasmiṁ sare udakaṁ n'atthi. この湖には水がない。 na aññāsi 君は知らなかったのか? seṭṭhinā saddhiṁ kathetuṁ na sakkomi. 私は億万長者と話すことができない。

(ii) na は、希求法と一緒に用いて、禁止を表します: na hatthisālaṁ gaccheyya 彼を象小屋に行かせるな。

(iii) na は、複合語の始めの要素になることがあります: nāgamanaṁ (= na + āgamanaṁ) 到着しないこと。 nabhikkhu 僧侶でない者、在家信者。

(iv) 二重否定は肯定になります: bheriṁ na na vādeyya 彼が太鼓を鳴らしていけなくはない。

(v) na の代わりに、no も同様に使います: no jānāti 彼は知らない。

(vi) no + na は、強い肯定を意味します: no na dhameyya 彼が (法螺貝を) 吹かなくてはいけない。 no nappahoti 彼ができないわけがない。

(vii) 疑問文は、疑問副詞・疑問代名詞を使って作ります: kasmā (なぜ), kissa, kena (なぜ), ko (誰が) など。

(viii) また、疑問不変化詞を使って作ることもあります。

(ix) api が疑問文中に使われるときは、必ず文頭に来ます: ap'āvuso, amhākaṁ satthāraṁ jānāsi? 友よ、君は僕らの師を知らないのか (知っているだろう)?

(x) apinu kho が続くと、非常に強い強調を意味する疑問になります: api nu kho koci upaddavo hoti? 何か苦悩はないのか (あるだろう)?

(xi) nu (かしら) には、kho が続くことが多いです: kīdiso nu kho paraloko あの世はどのようなのかしら? corā nu atthi? 盗賊がいるだろうか? (いないだろう)

(xii) na + nu は強調を意味する疑問になります: na nu'haṁ yodho 私は兵士ではないのか (兵士だろう)?

(xiii) 疑問は、動詞を文頭に持ってくることで表すこともあります: socasi upāsaka? 悲しいか、在家信者よ。

(xiv) 時には、声の調子だけで疑問を表すこともできます: sūpaṁ labhi? スープは手に入れたか?

(xii) 間投詞

(i) 主な間投詞は: 「はあ (嘆き)」, handa 「さあ (鼓舞)」 aṅga 「確かに」, bho 「友よ (同輩以下への呼びかけ)」, hare 「若造」, āma 「はい、確かに」, aho 「おお (驚き)」 です。(538)

(ii) bhaṇe (bhaṇati 「言う」の一人称単数-反射態) は、「おい聞け」の意味で、間投詞として使われます。

(iii) maññe (maññati 「思う」の一人称単数-反射態) は、「思うに」の意味で、間投詞として使われます。

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